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第2話 愛されても死ぬゲーム

Autor: なつめ
last update Data de publicação: 2026-08-06 22:48:54

 

医師が最後に扉を閉めたあとも、薬草と酒精の匂いが部屋に残っていた。

診察の結果、頭部に目立った外傷はない。脈が速く、身体が冷えているため、安静にするよう告げられた。運ばれてきた水は医師が先に口をつけ、銀の細棒を浸し、毒物反応がないことを確かめた。

それでもリディエラは、硝子杯をすぐには持てなかった。

朝の光を透かした水は、どこまでも澄んでいる。わずかな気泡が杯の内側を上り、ふっと消えた。その小さな動きを見つめるだけで、喉の奥が狭くなる。

〈侍女による毒殺:12%〉

先ほどまで視界に浮かんでいた文字は消えている。

消えたからといって、危険までなくなったわけではない。

医師は「お疲れが出たのでしょう」と言った。廊下に控えていた侍女たちは、誰一人として頷かなかった。リディエラが疲労で倒れるような暮らしをしていないと知っているからだろう。

医師は割れた茶器の欠片を二つ、白布に包んで持ち去った。残った破片は侍女が片づけたはずだったが、鏡台の脚の陰に、爪ほどの欠片が一つだけ残っている。縁には紅茶の色とは異なる、青白い粉が薄く固着していた。

拾い上げるべきか迷い、リディエラは触れなかった。何の粉か分からない以上、素手で扱うべきではない。あとで医師へ見せるため、欠片の位置だけを覚えた。

フェルニカの処置について尋ねると、医師の口元が一瞬だけ固くなった。

裂傷は浅い。腫れが引くには数日かかる。

それだけを簡潔に答え、彼は目を合わせなかった。

責める言葉より、その沈黙の方が痛かった。

リディエラは杯へ指をかけた。冷えた硝子が皮膚に吸いつく。ひと口含むと、水は乾いた舌を滑り、喉へ落ちた。味はない。けれど胃へ届くまでの一瞬、身体の内側を針で探られるような緊張が抜けなかった。

毒はない。

少なくとも、この水には。

杯を戻す音が、広い部屋に小さく響く。

窓の外では、鐘が鳴っていた。

低く、重い音が七度。朝の時刻を告げているのか、それとも学院の始業を知らせる鐘なのか、今のリディエラには判断できない。

扉の向こうに人の気配はあった。

けれど室内には、もう誰もいない。

一人になった途端、空中に淡い光が戻った。

〈悪役令嬢リディエラ・オルヴェイン〉

〈推定生存率:1%〉

〈断罪イベントまで:七日〉

文字の下に、今度はいくつもの小さな項目が並んでいる。

人物情報。

好感度。

生存ポイント。

強制イベント。

死亡要因。

リディエラは寝台へ腰を下ろしたまま、指先を浮かぶ文字へ近づけた。

触覚はない。

それでも指が項目を横切ると、薄い光の板が音もなく開いた。

最初に現れたのは、五人の名前だった。

〈ティルヴァン・エルグレード:34〉

〈ヴァルシェ・ネイグラン:17〉

〈セフィラン・アウレクシス:51〉

〈イェルク・ローディアス:62〉

〈ネレス・カルヴァディン:8〉

数字だけが、名前の横に静かに浮かんでいる。

恋愛を扱う遊戯なら、数値は高いほどよい。

好意を得て、信頼を深め、最後には最も高い相手と結ばれる。依子が前世で知っていた作品も、基本はそうだった。選択肢を誤れば数値が下がり、望ましい言葉を選べば上がる。

けれど、目の前の一覧には不自然な色がついていた。

ティルヴァンの34は青白い。

ヴァルシェの17とネレスの8は、血のように赤い。

セフィランの51は淡い緑。

イェルクの62は、紫がかった光で明滅している。

リディエラは説明欄を開いた。

〈好感度0~19:排除域〉

〈対象はリディエラを敵、障害、犯罪者、異端者として認識します〉

〈暗殺、逮捕、処刑、社会的排除が発生します〉

指先が冷える。

次の欄へ移る。

〈好感度20~39:警戒域〉

〈監視、尋問、証拠収集、行動制限が発生します〉

〈好感度40~60:生存域〉

〈比較的安全です〉

比較的。

その曖昧な言葉に、リディエラは眉を寄せた。

絶対に安全とは書かれていない。

〈好感度61~79:執着域〉

〈過保護、嫉妬、交友制限、秘密裏の監視が発生します〉

〈好感度80~99:監禁域〉

〈対象ごとに異なる独占行動が開始されます〉

〈好感度100:終端愛情〉

〈本人の理性より、規定された愛情行動が優先されます〉

最後の一文の下には、さらに小さな文字が続いていた。

心中。

時間停止。

国家封鎖。

大量粛清。

リディエラは、読むのをやめた。

喉を通ったはずの水が、胸のあたりで冷たい塊になっている。

嫌われれば殺される。

好かれすぎても、自由を奪われる。

100まで上がれば、相手自身の意思さえ関係なくなる。

恋愛と呼ぶには、あまりにも一方的だった。

リディエラは五人の名前へ戻った。

ティルヴァン、34。

王太子であり、リディエラの婚約者。

名を意識した瞬間、身体の奥から記憶が浮かび上がった。

白金の髪。濃紺の瞳。感情を表へ出さず、礼儀正しく、誰に対しても公平に見える青年。

幼い頃、王宮の温室で手を差し伸べられたことがある。

「転ぶ前に、僕の手を取るといい」

穏やかな声だった。

けれど手を取ったあと、彼はリディエラの歩幅を尋ねなかった。ただ自分が安全だと判断した速度で歩き、彼女が遅れれば手首を強く引いた。

その記憶に宿る感情は、憧れと痛みが混じっていた。

ティルヴァンは、予定が変わることを嫌う。秘密を嫌う。泣く者を見ると、その理由を本人へ尋ねるより先に、泣かせた原因を取り除こうとする。

三十四は警戒域。

今の彼はリディエラを婚約者ではなく、監視すべき危険として見ている。

低すぎる。

だが上げすぎれば、彼は生活も交友も居場所も管理し始める。

白い離宮。

その言葉が、記憶の底から不意に浮かんだ。

王宮の北にある、門の少ない離宮。静養のための建物だと教えられていたが、窓には内側から開かない術式が施されている。

リディエラは無意識に、自分の手首をさすった。

次は、ヴァルシェ。

17。

排除域。

暗い赤褐色の髪と、灰緑の瞳。学院騎士科の首席。背が高く、言葉数が少なく、命令には忠実。

記憶の中の彼は、いつも剣のそばにいた。

リディエラが階段でミレシアと言い争った時、ヴァルシェは事情を聞く前に妹の前へ立った。剣は抜かなかったが、柄へ置かれた手が何を意味するのかは明らかだった。

「ミレシア様から離れてください」

低く、硬い声。

リディエラが婚約者である王太子の名を出しても、彼は退かなかった。

「殿下のご命令でも、危険を見過ごすことはできません」

正義感が強い。

だからこそ危うい。

自分が守ると決めた相手の言葉より、自分の判断を優先する。敵と見なせば、相手の説明を聞く前に剣を抜く。

十七なら、すでにリディエラを排除してよい対象だと考えていてもおかしくない。

数字の横で、赤い光が脈打った。

セフィラン、51。

唯一、生存域の中央に近い。

淡い金茶の髪。紫灰色の瞳。大神殿の次期教皇候補。

彼は柔らかく笑う。

誰より早く相手の苦痛へ気づき、言葉にできない思いまで汲み取る。告解室では、沈黙している者の代わりに心情を語り、罪を認める勇気を与える。

けれど、身体に残る記憶の中で、リディエラは一度、彼の前で息苦しさを覚えていた。

「本当は、妹君が羨ましいのでしょう」

こちらが何も言う前に、セフィランはそう決めた。

「愛されたいのに、素直になれない。だから傷つけてしまうのですね」

彼の声は温かかった。

否定すれば、自分の心から逃げているのだと諭された。

頷けば、彼の解釈が真実になった。

どちらを選んでも、リディエラ自身の言葉が入る余地はなかった。

51。

数値だけを見れば安全だ。

だが、表示されない危険まで消えるわけではない。

イェルク、62。

紫の光が強くなる。

彼はすでに執着域へ入っていた。

青銀の髪。黄緑の瞳。王立魔術院長の養子で、魔術科の特待生。

人の感情を数式に置き換える青年。

記憶の中の実験室は、いつも冷えていた。床に刻まれた術式が青白く光り、薬品と金属の匂いが鼻を刺す。

以前、リディエラが彼の計算式へ偶然違う答えを出した時、イェルクは笑わなかった。ただ目を見開き、彼女の手首を掴んだ。

「もう一度、同じ条件で答えて」

痛いと告げても、聞いていなかった。

「君だけ結果がずれる。原因を確認するまで帰さない」

彼にとって、予測できないものは恐怖であり、同時に強い興味の対象だった。

好感度62は、愛されている証ではない。

観察対象として手放したくないと判断され始めている。

あと18上がれば監禁域。

イベント一つで二十以上変動することがあると、説明欄に記されている。

一度の会話。

一度の拒絶。

一度の偶然。

それだけで、逃げ道を失う可能性があった。

最後に、ネレス。

8

一覧の中で最も低い。

黒に近い濃紫の髪。金褐色の瞳。外国商家の留学生として学院へ入り込んだ、敵国の密偵。

表向きは冗談好きで、人当たりがよい。誰とでも親しくなり、名前を呼ぶまでが早い。

けれど、彼の本名を知る者はいない。

ゲームの中で、ネレスは何種類もの暗殺方法を使った。

紅茶へ落とす遅効性の毒。

馬車の車軸へ入れる亀裂。

夜会の混雑に紛れた細い刃。

階段の手摺へ塗る、触れるだけで眩暈を起こす薬。

証拠は残らない。

死は事故か病として処理される。

好感度8。

すでに条件を満たしている。

リディエラは、自分の指先へ残っていた血を思い出した。

朝の紅茶。

割れた茶器。

死亡要因に表示された、密偵による暗殺73パーセント。

水差しの置かれた卓へ視線を向ける。

カーテンの隙間から差す光の中で、銀の表面が鈍く輝いていた。何も動いていない。それなのに、壁紙の花模様の陰から誰かがこちらを見ているような感覚が消えない。

ネレスは、もう動いている。

いつから。

どうして。

身体に残る記憶を探っても、明確な理由は見つからなかった。

リディエラは妹を虐げ、使用人を罰し、学院で多くの者の反感を買っている。だが敵国の密偵に狙われる理由は、それだけでは足りない。

知らないところで何かをしたのか。

あるいは、リディエラという立場そのものが邪魔なのか。

問いは増えるばかりだった。

寝台の脇に置かれた時計が、かすかな音を立てる。

こつ、こつ、と一定の間隔で針が進む。

断罪まで七日。

暗殺者は、それより早く来る。

リディエラは一覧を閉じず、鏡台へ向かった。

まだ足元は頼りない。厚い絨毯へ沈むたび、寝衣の裾が足首へ絡んだ。窓から入り込む冷気が濡れた髪を揺らし、首筋を撫でる。

鏡台の引き出しを開ける。

香水瓶。

宝石箱。

未開封の手紙。

その奥に、黒い革で綴じられた帳簿があった。

表紙には金の箔で、公爵家の紋章が押されている。開くと、衣装代、宝石の購入費、使用人へ科した罰金が几帳面な文字で並んでいた。

罰金。

フェルニカの名もある。

三日前、ティーカップを一つ割ったとして、月給の半分。

二週間前、呼び出しへ遅れたとして、二日分の減給。

さらに頁をめくると、別の侍女たちの名が続いた。

リディエラは指を止めた。

胸の奥へ、重いものが沈んでいく。

ここに記されている数字も、人の生活を縛る数字だった。

好感度と何が違うのだろう。

罰金を上げれば、侍女は従う。

好感度を上げれば、攻略対象は自分を守る。

相手の弱み、恐怖、欲望を知り、望む反応を引き出す。

目的が生存であれば、許されるのか。

依子は前世の母の声を思い出した。

「あなたのためを思って言っているの」

食事を与えられなかった夜。

「お母さんを怒らせるあなたが悪いのよ」

捨てられた教科書。

「ちゃんと謝れたら、許してあげる」

許されるために何を言えばよいか、幼い依子は早くから覚えた。

母が求める言葉。

母が喜ぶ表情。

母の罪悪感を刺激しない沈黙。

心からの言葉ではなく、罰を避けるための選択。

それを今度は、自分が他人へするのか。

ネレスが本名を嫌うと知れば、無理に聞かずに信頼を得る。

ヴァルシェが妹を失った傷を知れば、守れなかった罪悪感へ触れて同情を引く。

ティルヴァンが涙を苦手とするなら、必要な時だけ泣いて判断を揺らす。

セフィランには孤独を見せ、イェルクには予測不能な答えを与える。

そうすれば、数字は動くかもしれない。

生き残れるかもしれない。

けれど、それは相手の心を尊重することではない。

傷を鍵穴として使い、自分の都合のよい場所へ感情を誘導するだけだ。

リディエラは帳簿の空白頁を開いた。

羽根筆を取る。

インク壺の蓋を外すと、鉄と油を混ぜたような匂いがした。筆先を浸し、最初の行へ名前を書く。

ティルヴァン・エルグレード 34。

ヴァルシェ・ネイグラン 17。

セフィラン・アウレクシス 51。

イェルク・ローディアス 62。

ネレス・カルヴァディン 8。

数字を書き終えたところで、筆が止まる。

このまま好みや弱点を書き並べれば、人を操るための一覧になる。

リディエラは一度目を閉じた。

暖炉から微かな薪の匂いが届く。窓の外では馬車が石畳を進み、車輪の音が遠ざかっていく。

やがて、数字の横へ別の項目を書き足した。

不安になった時の行動。

拒絶された時の反応。

他者へ与える被害。

本人が選び直した行動。

そして頁の上部へ、ゆっくりと一文を記す。

感情を操らず、行動の結果として数値を動かす。

書き終えた文字を見つめる。

困難な方針だった。

相手の好みへ合わせる方が早い。

望む言葉を選び、傷へ触れ、必要とされる人物を演じればよい。期限が七日しかないなら、手段を選んでいる場合ではないとも思う。

それでも、自分がされて苦しかったことを、生き残るためという理由で誰かへ返したくなかった。

嫌われないために従うのではない。

好かれるために媚びるのでもない。

間違ったことには拒絶を伝える。

過去のリディエラが与えた損害は返す。

謝罪しても、許しは要求しない。

誰かの傷を知っても、それを利用しない。

その結果として数字が下がるなら、別の方法で危険を避ける。

上がるなら、上がりすぎない距離を保つ。

全員を40から60へ。

誰か一人を選ぶのではない。

誰からも殺されず、誰にも閉じ込められない場所へ保つ。

攻略ではなく、生存のための境界線だった。

リディエラは五人の数字を囲み、横に目標値を書いた。

40~60。

ヴァルシェは、最低でも二十三上げなければならない。

ネレスは、32。

ティルヴァンは6。

セフィランは今のまま。

イェルクは2以上、下げる必要がある。

だが数値だけを合わせても、彼らの行動が変わらなければ意味はない。

イェルクが60へ下がっても、人を研究材料として扱うなら危険なままだ。

ヴァルシェが40へ上がっても、証拠を見ずに剣へ手をかけるなら、誰かが傷つく。

ティルヴァンの管理を愛情として受け入れれば、数値は安定しても自由を失う。

帳簿へ書き込むほど、道の細さが明らかになっていく。

それでも、何も知らないまま怯えるよりはよかった。

リディエラは筆を置いた。

指先に黒いインクがついている。

血とは違う色だった。

拭えば落ちる。

けれど帳簿へ残した文字は、簡単には消えない。

その時、空中に浮かんでいた一覧が小さく震えた。

ネレスの名だけが暗く沈み、数字の8が赤く滲む。

リディエラは息を止めた。

新しい文字が、一行ずつ刻まれていく。

〈排除条件を確認〉

〈暗殺準備完了〉

窓の外で、鳥が一斉に飛び立った。

羽音が硝子を打つように響く。

続いて、最後の一文が現れる。

〈暗殺イベント開始まで:23時間51分〉

寝台脇の時計が、こつりと針を進めた。

1秒が減った。

23時間50分59秒。

リディエラは帳簿を閉じなかった。

赤い文字から目を逸らさず、もう一度、羽根筆を取る。

最初に書くべきなのは、好みでも弱点でもない。

明日までに、自分を殺しに来る男の理由だった。

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     資料棟を出た時、時計塔は15時12分を指していた。 旧王妃庭園へ向かうよう示された時刻は16時10分。 視界の隅には、別の時間が減り続けている。〈黒ミッション残り時間:66時間49分37秒〉 リディエラは回廊の途中で足を止めた。 ティルヴァンの母アリエネが亡くなったこと。葬儀でも泣かなかったこと。母の老犬が死んだ夜、「僕が悲しめば、皆が困る」と口にしたこと。 知ってしまった。 だが、その知識を使うつもりはない。 旧王妃庭園で亡き母の話を故意に持ち出し、老犬の記憶へ触れる。泣いてもよいと優しく言いながら、涙が出るまで傷を撫で続ける。 そんなことをすれば、黒い表示は喜ぶかもしれない。 リディエラは嫌だった。 ただ、嫌だという感情だけで残り時間は止まらない。 もう一つ確かめたいことがある。 どこまでが無効で、どこからが「本人の感情」と判定されるのか。 身体を傷つけることは無効。薬も、魔術による強制も、演技も無効。 では、偽りの知らせによって本気で悲しませた涙はどうなる。 他人から誘導された感情でも、本人が本当に悲しめば有効なのか。 そんな境界を尋ねる相手として、一人だけ思い浮かんだ。 最も相談したくない男でもあった。 ネレス・カルヴァディン。 好感度11。未だ排除域。 毒を盛り、殺す理由を教えず、価値がある間だけ生かすと言った青年。 同時に、人間がどこで傷つくかをよく知っている。「マルタ」 少し後ろを歩いていた侍女が顔を上げる。「はい」「東棟へ寄ります」 マルタの表情が露骨に曇った。「ネレス様ですか」「おそらく」「またお茶を?」「飲みません」 即答すると、彼女は少しだけ安心したようだった。「人の多い場所で話します。前と同じように、少し離れていてください。ただし、私が杯に触れたら来てください」「今回は杯に触れないとおっしゃったばかりでは」「念のためです」「分かりました」 以前より、彼女は質問するようになった。 それが嫌ではなかった。 東棟の談話回廊は、午後の講義を終えた生徒たちで賑わっていた。 香辛料を練り込んだ焼き菓子の匂い。異国語の会話。窓のない回廊を風が通り、吊るされた布飾りを鳴らしている。 ネレスは、以前と同じ奥の席にいた。 今日は3人の男子生徒を相手に、札を使った遊戯をしている

  • 死亡率99%の悪役令嬢ですが、好感度50を外すと全員が壊れます   第22話 涙を見せない王子

     旧王妃庭園へ向かうまで、まだ数時間あった。 黒いミッションは、視界の隅で時間を削り続けている。〈残り時間:69時間14分08秒〉 リディエラは表示を閉じた。 焦れば、傷つく言葉を探し、過去を暴き、泣くまで追い詰める方へ傾く。それをしないと決めたのなら、まず知るべきは「どうすれば泣くか」ではなく、「なぜ泣かないのか」だった。 王立アルセリア学院の中央資料棟には、王家に関する公刊記録も保存されている。 王太子の生い立ちそのものは秘密ではない。 むしろ、王位を継ぐ者の歩みとして積極的に残されていた。 リディエラは司書へ申請し、宮廷年報、王都新聞の縮刷版、学院行事記録を閲覧机へ運んでもらった。 高い窓から射し込む朝の光。 遠くで頁をめくる乾いた音。 黒い革表紙の宮廷年報を開く。 最初に出てきたのは、六歳のティルヴァンだった。 公式晩餐へ初めて出席した日の記録。〈王太子殿下は幼少ながら終始ご立派な態度を保たれ、諸侯の挨拶へ一人ずつお応えになった〉 添えられた記録画には、小さな白金の髪の少年がいる。 大人用の椅子へ座れば足が床へ届かないほど幼い。 それでも背筋を真っ直ぐ伸ばし、膝の上へ両手を置き、正面を見ている。 笑っていない。 怯えてもいない。 子どもらしい退屈さすら見えない。 次は八歳。 外国使節団を迎えた時の記録だった。〈殿下は使節の母国語による挨拶を披露され、両国友好の象徴として大きな称賛を受けられた〉 写真のティルヴァンは、やはり同じ顔をしている。 唇の角度まで整っているように見えた。 十歳。 王太子として初めて民衆の前で短い演説を行った。〈未来の王としての責任をすでに深く理解しておられる〉 どの記録も褒めている。 泣かなかった。 取り乱さなかった。 怯えなかった。 失敗しなかった。 そのすべてが、美徳として同じ方向へ積まれていた。 リディエラは紙の余白へ簡単に書き留める。 六歳――公式晩餐。 八歳――外国使節。 十歳――初演説。 すべて「落ち着いていた」「立派だった」「年齢以上」と評価。 子どもらしい感情が記録されていない。 羽根筆を止める。 記録にないことと、存在しなかったことは違う。それでも、周囲が何を価値あるものとして残したかは分かる。 感情を抑えられる王子。 乱れない

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